トムソーヤ的冒険の日々(発達障害を生きる)

日々の暮らしの中で思ったこと、感じたことなどを綴っていきます。

怖がりの自分とエゴの声

 

数日前、長男と久しぶりに車で出かけることがあった。

長男が4月から一人暮らしを始めるので、アパートを見に行ったのだ。

物件を決めて帰る道中、ついつい心配から余計なことを口走った💦

そこから、長男が激怒。

長男の運転が荒くなった。

私は途端に怖くなり、「怖いから、運転を代わりたい」

と申し出るが、本人は意地を張り、「自分が運転する」と言ってきかない。

私が怖い怖いを連発するので、長男から、

「黙ってくれ!」

と頼まれる。

 

長男に黙れと言われて、口を閉じた時、

ハタと気づく!

私も、子供たちが小さい時、こんな風に感情的に運転したことはあったはずだ。

そんな時、子供たちは、怖かっただろうが、黙って乗っていてくれた。。。

私は怖い怖いといって怯えているが、子供たちはその当時、耐えてくれていたのかもしれないな。。。

と思ったら、カルマの回収だ!私も耐えよう!

と思え、肛門をギュッと閉めた🤣

 

その時、何が怖かったのかと分析すると、、、

事故したら、車の修理費がかかるし、

今のこの健康な体と顔のままではいられない。

ここには、人からどう見られるのかというプライド(哀れみと同情が自分を惨めにさせるのが怖い)などの感情が隠れている。

死にたくない。

という自分の中のエゴの声だった。

 

それに気づいたので、

もし、私にそのことが必要なら、この状況全てを受け入れます!

何が起ころうとすべてを引き受けます!

と祈ることにした。

 

そうすると、長男の運転も落ち着いてきて、最後の方は、安心して乗っていられるようになった。。。

 

家に着いたときは、無事に帰りついたことを感謝した💛

 

 

翌日、その話を仲間にしたことで、気づいたことがある。

私の記憶の中に、自動車事故すると、健康な身体と顔が奪われる!という自動思考の怖さがあった。

私が中学校の頃に聞いた、姉の友人の話や、私が大学時代、事故をして寝たきりになった友人がいる。(実家に帰った時は、時々会いに行っていた。)

そのことが、私の記憶としてあって、

特に助手席に乗った時、記憶が蘇っていた。ということになる。

(運転している人にもよるので、毎回ではない)

多分だが、私自身の過去生の記憶としても、同じような状況になったことがあるのかもしれないな。とも感じている。

こんなことから、怖さに繋がっていたことに気づけた(^^♪

長男には、余計なことを言って怒らせてしまったが、このことに気づけたことは、良かったな。と思えている(#^.^#)

 

 

そしてそして。。。

昨夜は、寝付けず、「皇の時代への大転換期」の本を読んでいたら、絶対的自由について以下書かれていたことが刺さりまくった💦

これからの時代は今までの情から、自然の愛を受け止める時代に変わるのです。

ちなみに「情」とは「愛」に付いたゴミのことです。情は可哀そうという同情から来るもので、相手の能力を尊重せず、見下したところから出るもので、大変失礼なことです。そして、頼まれもしないのに、手取り足取りすべて教えて、その人を「自立」させないようにしてしまうことです。

今回の長男とのことは、

自分の恐れ(エゴの声)に気づくことと、情に流されるのではなく、相手の自由を尊重する、という

お互いの自立に向けての気づきだったのだ。

 

失敗して、修正。

それでOK👌

先ずは、気づけたことを喜ぼう!(^^)!

 

👇2日前の雲。改めて見ると龍っぽい(^^♪